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ガラスの向こう側にもまだ店が続いているような錯覚に陥る。
ゆったりと奥行がとられた木のカウンターの、少しひんやりとした感触を頬に感じながら正人は思う。
この店のカウンター横には大きな額縁のような窓が設けられていて、日が落ちると暗闇に店内が写り込む。そこには、こっちに向かって頬をカウンターにつけたもう一人の正人もいる。自分と向き合っているのが少し可笑しくて正人は顔を上げる。
そして珈琲を口にしていないことに気づく。何回目からだろうか自然に正人の珈琲には、砂糖とミルクが付いてこなくなった。いつも珈琲を頼むお客が、いつも出される砂糖とミルクをそのままにしていると、何も言わずに出されなくなるものなのだろうか。たまに正人は気分でミルクを入れたりするのだが、こうして最初から出されなくなると、なんとなくミルクだけほしいと言いづらい。
少し冷めてしまった珈琲にミルクを入れたいなあ、と思って口にカップを運んだ時にふいに声をかけられた。
「お仕事帰りですか?」
いつも黙って黙々とカウンターの中で仕事をしている30代半ばぐらいの店員が声をかけてくる。
正人以外にカウンターには誰もいないのだが、一瞬キョロキョロと周りを見てから改めてその店員のほうへ目をやりながら応える。
「ええまあ」
この三日間、同じ時間にカウンターの同じ席に座る客が珍しいのか、暇そうにしている正人を気の毒に思ったのか、初めて声をかけたが生返事な答しか返ってこないことに戸惑った店員の顔が、逆に正人を気の毒にさせ言葉を繋いだ。
「ああ、この近くに会社があって帰り道なもんで」
気を使って正人は答えたつもりだったが、「ああ、そうなんですか」とあっさりとした返事しか返ってこず、そのまま裏の厨房へ店員は消えていった。
今日で三日連続同じ時間に来ている。自分でも馬鹿だと正人は思う。そんなことをしないと自分で自分の背中を押せないのかと。

ちょっとした願掛けみたいなものが始まりだった。一か月ぐらい前だろうか、いつも通勤でこの店の前を通るのだが、たまたま会社からこの店を通る直前の大通りの交差点の信号が青だった。普段こちら側の車線は信号が変わるのが早いので時間帯によっては中々渡れない時が多い。大げさだが、正人はいつも赤の点灯を二回ぐらい見ている気がする。
そんな信号の交差点をその日は珍しく待たずに通れた。
気分を良くした正人は、いつも前を見て通り過ぎるだけのこの店にその時初めて入ってみようという気になった。なぜそうなったのかと聞かれるとうまくこたえることはできないのだけれど、その日は入ろうと思ったのだ。
そして帰り、その店を出たすぐの交差点の青く点灯した信号機の真上に三日月がきれいに浮かんでいた。ぼんやりとその三日月を見ながら正人はこの願掛けを思いつく。
これが三回続いたらしてみようと。あの店の行きと帰りの信号が三回連続、青だったらしようと。
ようやくその三日目に今日初めて辿りついた。もう一度暗闇の窓ガラスに映る自分の顔を見ながら正人は思う。もし店を出てすぐの信号が青だったらちゃんと自分からするのだろうかと。
最後に電話してからどれぐらい経つのだろうか。清美からの取らない電話がかかってこなくなってどれくらい経つのだろうか。その間自分は何をしていたのだろうか。
考えたところでどうにも自分が悪いのだと。正人から連絡をとらないことにはどうしようもないのだ。さて、後は最後の信号機だけだ。そんなことを思うとまた正人は可笑しくなった。
なんてくだらない願掛けなんだろうなと。これぐらいで連絡することができるのなら、最初から素直にしておけばよかったのにと思う。でもこうして期待している自分がいるのも正人には分かる。青だったらいいのに。
二分の一の確率がとてつもなくそれ以上に大きい確率に正人は思えた。
席を立ちレジの前へ立つ。さっきの店員が出て来て会計をしてくれる。「いつもありがとうございます」と声をかけられ、まだ数える程しか来ていないことに恥ずかしくなる。でもなぜか悪い気はしなかった。そしてドアを出る瞬間にまた声をかけられた気がした。
「頑張ってください」
そんなはずはないと一瞬ちらりと正人が後ろを振り返ると、さっきの店員がこちらを向いてお辞儀をしている姿があった。
確かめることもできずにいると、店員を覆い隠すかのようにドアが静かに閉じた。