8周年

ふと振り返った瞬間、啓太が入って来たように見えた。

ぐるぐると黒い液体をかき混ぜながら、その渦を巻くカップの中心を何気なくぼんやり眺めていた。
その時、外の冷えた空気がドアが開けられたと同時に店内に流れ込み、朱美は今、気付いたように、運ばれてきてからずっと珈琲をかき混ぜていた手を止め、カウンターの後方の扉に目をやった。
どこが似ているのだろうか。もう一度、改めて奥の席に向かう男の後ろ姿を追ってみたが、背格好はなんとなく似ているのかもしれないが、どう見ても啓太には似ていなかった。

この店に来るのは何年振りなのだろうか。
こうしてまたこの店に来るとはあの時は思ってもいなかった。この秋に欠員の玉突き移動があり、朱美はこの地にやって来た。デジャブ、この勤務地を聞かされた時、朱美は思った。
昔からこういうことがよくあった。学生時代に住んだ街も、高校時代に友人たちと一度だけ訪れたことのある街で、まさかその時使った駅が自分の生活の一部になるとは思わなかった。また、何かのイベントで訪れた街が、付き合った彼氏の住む街だったりしたこともある。

啓太に似ていると思った男は窓際に一人座り、本を読んでいる。雑誌を取りに行く振りをしてもう一度、朱美は眺めてみる。
少しして朱美は可笑しくなった。啓太はもう、その窓際に座っている男のように若くはないのだ。どう見てもその男はまだ大学生のように見える。
朱美と同じく啓太もちゃんと年をを重ねている。あの時のようにもう二人とも学生ではなく、きちんと働いている。働き出して間もなくして、啓太とは別れた。実際の距離が、二人の距離も離していった。どこにでもあるよくある話である。

店員が、水を注ぎに来てくれる。
どことなくまだ慣れていなさそうの子だなと思う。その店員がぎこちなく小さな袋に入ったクッキーを手渡してくれた。
「今月で8周年になります。よかったら食べてください」
そう言って、カウンターにそのクッキーの入った袋をそっと置いていく。あの時、啓太と一緒に来た時もこうしてクッキーをもらった気がした。何か開店祝いというので。
8年かと朱美は思う。一度しか訪れたことのない店なので、どう変わったかはよくわからないが、おぼろげな雰囲気だけは記憶に残っている。啓太と最初の旅行だというのもあったが、どことなく窓から射す日差しのように暖かな記憶があった。
そして今も変わらずそんな雰囲気だけは残っている気がする。朱美自身はどうだろうかと考える。今はもう横には啓太はいない。8年の間に変わってしまったもの、変わらないものどちらが多いのだろうかと。
どちらが多いと幸せなのかと思う。
この店はこれからこちらで勤務する限りは使うのだろうなと、ぼんやりと考えていると見知った顔が隣にあった。その顔を見て朱美は安心する。
朱美自身の8年後のことは分からないが、この店は8年後もこうしていつまでも扉を開けていてほしいと願う。そしてまた訪れたいと思う。